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保守主義の哲学---ルソー主義の呪縛を滅すための試書 [政治]

 

 平成24年4月29日(昭和の日)に日本国、天皇(皇室)、日本国民に捧ぐ。

 これは、 「ルソー主義の呪縛を滅すための試書」である。

 渾身の長文であるため、興味ある方のみ、プリントアウトして読まれることを望む。

 PDF fileクリック→ ルソー主義の呪縛を滅すための試書(清書・修正版)
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うまやど

バーク保守主義者殿

いつもありがとうございます。
渾身の論文を一部転載の上、紹介記事を書かせて頂きました。

http://blogs.yahoo.co.jp/umayado17/62648458.html

よろしくお願いいたします。
by うまやど (2012-05-05 04:36) 

錬金術師


バーク保守主義さん、いつも御世話になっております。
今回の論考も大変分かりやすく、勉強になりました。

ですが気になる部分が一つありましたので、一応お知らせします。


1頁目に「国民主権を削除せよ」との御意見には賛成です。しかし現行憲法を基に改憲したら、これは不可能ではないでしょうか。

日本国憲法の理念である国民主権・基本的人権の尊重・平和主義を否定する改憲は出来ないとする「改正限界説」が多数説になっているからです。

「無限界説」もありますけど、少数説であり、改正限界を認めないと憲法が時と状況に応じて変化する危険性が生じます。

もし宜しければ、改正限界説と国民主権の削除をどう両立させるのかのお考えをお聞かせ頂けますでしょうか。

私の読み落としでしたら申し訳ありません。
by 錬金術師 (2012-05-17 22:40) 

BURKE_REVIVAL_IN_JAPAN

 錬金術師 殿(5・19 17:15、一部文章を追加修正し再掲)

 いつもお世話になりありがとうございます。

 貴殿の質問の主旨は充分心得ているという前提で、少し的外れな回答を、私の拙論を読んで下さる、貴殿を含む読者の皆様に対してさせて頂きたいと思います。

 ある著書には、法について次のように記述されています。

 「われわれ現代人にとっては、法は、それが通用力を持つためには、ただ一つの属性を必要とするだけである。

 直接または間接に国家によって制定されるということ、これである。
 (→抜け落ちを追加、5月19日17:15に修正しました。読者の皆様、ごめんなさい。)
 
 これに反して、中世法にとっては、この一つの属性の代わりに、それとは違った二つの属性が本質的な意味を持っていた。

 すなわち、中世法は「古き」法であり、かつ「良き」法なのである。

 ・・・それは、国家による制定という標識を必要としなかった。

 ・・・中世にとっては法は自己目的であった。

 なぜなら、法というとき、同時に倫理的感情、人類秩序全体の精神的基礎、善そのものがそれに含めて考えられたからである。

 したがってまた、法は、国家の自明的な基礎でもあったのである。
それ故に、中世にとっては、法が第一次的なものであり、国家は第二次的なものにすぎなかった。

 そこでは、国家は法の実現のための手段にすぎず、国家の存在は国家の上にある法の存在から導き出されたのである。

 法が国家の以前にあり、国家は法のために、また法を通じて存在するのであり、法が国家を通じて存在するのではない。

 ・・・国家に対する法のこのような優越的地位の根拠を明らかにしておきたい。

 その根拠は、理想法と実定法との区別がなかったという点にある。

 善そのものと同一であるような法は、いうまでもなく国家以前に、また国家の上にある。

 中世の世界は法の神聖さに対する概念的敬虔の念に満ち溢れていた。

 それも当然のことである。

 けだし、法は、無味乾燥な、干からびた、動き易い、技術的な、国家に依存した今日の実定法ではなかったからである。

 法は、道徳律の神聖性を自己の内部に不明確な形で混和してもっていた。」
 
 (フリッツ・ケルン『中世の法と国制』、創文社歴史学叢書)


 そもそも現行の日本国憲法の理念が

 「国民主権(=無制限の権力の容認)・

 基本的人権(=道徳否定・フランス革命の殺人教理)の尊重・

平和主義(国防放棄主義=敗北主義的共産革命論)」

 である、などということを一体、どこの誰がどのような法学に基づいて決定した(認めた)というのでしょうか。

 二千年以上の歴史を誇る日本国の皇祖皇宗、今上陛下(皇室)及びすべての日本国民(祖先、現存の国民、将来の子孫)が、このようなフランス啓蒙思想とフランス革命に起源する「革命ドグマ」を、日本国の伝統・法・美徳であると決定し、承認するのでしょうか。
 
 国家の法とその制限下にある政府によって、“生命/安全・私有財産(所有権)・美徳ある自由と諸権利”を擁護されない「人民主権の全体主義的デモクラシー国家」である(国家)社会主義や共産主義の国家に“国民の権利”や“個人の尊厳”などが存在し得るでしょうか。

 そう考えれば、“生命/安全・私有財産(所有権)・美徳ある自由と諸権利”を擁護する、立憲君主制、法の支配(法の下の平等)、憲法第三章に掲げる国民の自由権・財産権の保障、三権分立制、議会の二院制(→5月19日17:15に追加修正)などの原理こそが、正統な憲法原理であり、第一の憲法の理念とされるべきでしょう。
 
 事実、現行日本国憲法の第一章は「天皇」となっています。
 
 あるいは、現行憲法第二十四条第二項の「男女の本質的平等」などという虚構をさらにねじ曲げた詭弁とマルクス主義フェミニズムから発する、男性の男らしさ、女性の女らしさを否定するジェンダー・フリーなどの凶悪思想を義務教育課程の児童生徒に押し付けることが、日本国の正統な法に基づく、正しい人間道徳なのでしょうか。

 このような人間道徳を逆立ちさせた、内閣府・男女共同参画局や道徳無知の愚鈍文部科学省・赤い日教組・朱色の教育委員会等による、「似非人権利教育」は、児童・学生の健全な精神成長に対する「真正の虐待教育」であって 全世界に対する我が国の「大恥」さらし以外のなにものでもないから即刻、終焉宣言すべきである。

 ケルン曰く、

 「百年(→六十数年)続いた悪習(→凶悪革命ドグマ)の以前に、千年(→二千年以上)続いた永遠の、(取得)時効によって消滅することのない(→日本国の)法が存在している」(同、8頁)

 「法は曲げられ、偽造されることもあるが、やがて法は再び自己を回復し、結局はやはり、法を冒涜した罪人を粉砕する。」(同、9頁)

 「普通の人も、官権も法に義務付けられており、法の再建に参与する使命を担っている」(同10頁)

 「(中世の観念では)国家は法を変更できなかった。そのようなことをすれば、国家はいわば母殺しの罪を犯すことになるであろう」(同、19頁)

 長くなりすぎました。

 申し訳ございません。それでは。

                       (5月19日、文章の追加修正済み)

                 by エドマンド・バークを信奉する保守主義者

by BURKE_REVIVAL_IN_JAPAN (2012-05-19 17:38) 

錬金術師


 バーク保守主義者さん、お返事ありがとうございます(#^.^#)。
by 錬金術師 (2012-05-21 23:26) 

戦車

ルソーは礼儀作法は批判していますが、道徳は批判していません。
学問・芸術論でルソーは、後期のローマ帝国(ネロがローマが燃えてる際笛を吹いていたという言い伝え等)を批判し、支那の科挙が韃靼人から守る為に役に立たなかったまた汚職を止める事にも役に立たなかった、スコラ学は学問的戯言、アテナイの無神論者への批判、無知の知からソクラテスの賞賛、祖国愛の強いスパルタの賞賛、ペルシャの道徳教育の賞賛、タキトゥスが自国に失望しながら書くことで心を休める事ができたゲルマーニアの賞賛などなどを話し、「文明は美徳の装飾であり、愛国心こそが美徳である。奢侈で国は強くならない。」と言うような現実主義的な主張をしたのです。
by 戦車 (2016-01-04 20:52) 

BURKE_REVIVAL_IN_JAPAN

戦車 殿

 貴重なご意見ありがとうございます。

 口先で、「人間愛」「憐憫」を唱えることは、ルソー以前の時代にも、正常な人間なら、誰でもしていたこと。

 「愛情」や「憐憫」を唱えたり、道徳を肯定したり、神を尊敬しているように著書の中で見せかけで述べたところで、その人物の言葉が実際の道徳行為を全く伴っていないならば、それは単なる「虚栄心」に発する虚構(フィクション)であって、「道徳」でも「美徳」でも何でもありません。

 貴殿は、人格とか道徳(美徳)とかは、「実践哲学である」ということ、また、「諸個人の自発的な義務感に発する個人主義的な美徳のこと」であることは、最低限ご存知ですよね? 全体主義的(社会主義的)倫理は、人間の道徳(美徳)ではありません。

 ルソーの逆説的な「見せかけの道徳」は=「文明人憎悪の思想」については、バークやハイエクをはじめ、世界の多くの正常な保守主義の思想家が唱えているところであり、私が決めつけて言っているのではありません。世界標準の常識的見方です。米国ではルソーを排除してだれもルソーなど読みませんし、ルソーが狂人であったというのが常識的見解です。

 ただし、私もルソーの『人間不平等起源論』、『社会契約論』、『エミール』を読みましたが、ルソーは狂人に近い異常者である、ということはバークやハイエクらと全く同意見です。

 果たして、狂人が道徳家であったり、道徳を理解したりできるでしょうか?

 100%あり得ません。

 貴殿ののお考えが、道徳の理解不足であり、妄想的です。

 あるいは、読書しても著者の真の思想を見抜く読解力が貴殿にはゼロなのでしょうか?

 馬鹿馬鹿しい、御忠告は二度としてもらわなくて結構。

 以上。
by BURKE_REVIVAL_IN_JAPAN (2016-01-04 21:50) 

戦車

返信していただけるとは思いませんでした。(しかもこんなにも早く)返信して頂き有り難う御座います。

ある人が同じ国の人の為に命さえも捧げる精神は全体主義でしょうか?
大日本帝国は全体主義でしょうか?

第一次ポエニ戦争の際、ローマ共和国は愛国心が強く戦費よく集められたが、カルタゴの貴族は公にお金を投資する事が無かった。
愛国心を持たない者は少ない方が良いので、愛国心の持たない者について何も述べる事が出来ないのは仕方ない事だと思います。
by 戦車 (2016-01-04 23:59) 

BURKE_REVIVAL_IN_JAPAN

 戦車殿

 貴殿は、「平時-戦時」の概念と「自由主義-全体主義」の概念という二つの異なる概念のクラスを、混同して勘違いしているだけです。

 なお、これ以上くだらない質問には答えません。
 (コメントされても、すべて削除します。私、くだらない、しつこいコメントに繰り返し答えるのは大嫌いだし、時間の無駄なので・・・)。

 以 上。

by BURKE_REVIVAL_IN_JAPAN (2016-01-05 00:58) 

BURKE_REVIVAL_IN_JAPAN

 戦車殿

 すいません、重要なことを言い忘れたので、
 
 もう一点だけ、付け加えておきます。

 ルソーは、その「一般意思」等の思想によって、(→いわゆる『社会契約論』において、「平時に、全体主義であるような国家」の創設を考え付いたからこそ、反・道徳の狂人なのでしょう。

 そして、ジャコバン派らは、そのルソー思想を忠実に実行しようとして、フランス革命を起こし、フランス国民を大虐殺したのでしょう。

 これらを踏まえれば、ルソーが道徳的であると論じること自体、ルソー的ではないでしょうか?
by BURKE_REVIVAL_IN_JAPAN (2016-01-05 01:11) 

戦車

再度投稿します。

「『社会契約論』第2編 第5章 生殺の権利について」
に「主権者が気に入らない人間は自由に殺しても良い」などと言う記述はありません。
書かれているのは殺人などの犯罪に対する死刑と戦争の司会者を殺す権利である戦争権についてです。
ジャコバン派はこれを誤解してもしくは自分の考えで虐殺を行ったのだと思います。
それどころか「なお、刑罰がしきりに行われるのは、常に政府の弱体、あるいは怠慢の徴候である。」とさえ書かれています。
by 戦車 (2016-01-07 00:22) 

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