So-net無料ブログ作成
検索選択

バークの哲学---義務について。ドラマIB、T大H学部、狂気のAY名誉教授への御助言です。 [政治]


image001.png


 ドラマIB放送中、申し訳ありませんが、T大H学部、狂気のAY名誉教授への御助言。 

 エドマンド・バーク曰く、


 「智恵(wisdom)も美徳(virtue)も欠いた自由(liberty)とは一体何か。智恵も美徳も欠いた自由とは、悪(evils)の中の最悪のものだ。なぜなら、そのような自由は、教導も自制もされない、馬鹿さ(folly)、悖徳(vice)、狂気(madness)だからだ。」(バーク『フランス革命の省察』、みすず書房、310頁)

 バーク曰く、

 「いやしくも文明社会(civil society)が当然に道徳の管轄分野(moral jurisdiction)に属すると考えるすべての人びとに対して私は、われわれが社会への義務(duty)を負っているという場合、これが決してわれわれの意思(will)に依存しないという真理を真剣に肝に銘じるように何度も繰り返し勧告したいと思う。

 義務は任意の(voluntary)ものではない。義務と意思は互いに相容れない(even
contradictory terms
)概念である。文明社会はある場合は確かに最初は自発的な意思の産物かもしれない〔事実多くの場合はそれは間違いなくそうであった〕が、その継続は社会と共に続く恒久的で確固たる合意(permanent standing covenant, coexisting with the society)に依拠し、それは社会内のすべての成員に彼自身のいかなる行為とも無関係に帰属し(without any formal act of his own)、それは人類の一般良識(general sense)に発する一般慣行(general practice)によって保証される。

 この結び付きによって人間は彼の選択とは無関係に恩恵を引き出し、彼の選択とは無関係にこれらの結果として自らの義務を負い、彼の選択と無関係に実定法規にいささかも劣らない拘束力を持つ実質的責務を取り結ぶ。

 人生の全体と義務の全体系を眺め渡すならば、最も強力な道徳上の義務は決してわれわれが選択した結果の産物ではない。」 (バーク『政治経済論集「旧ウィッグは新ウィッグを裁く」』、法政大学出版局、654655頁)

 バーク曰く、

 「道徳の線は数学における理念上の線とは別であり、それは長さばかりでなく、幅と深みを有する。

 それは、(各人の置かれた状況の本性に従がって)例外を許容し、補正を要求する。

 これらの例外や補正は、論理学の手続きではなく、慎慮の規則によって行われる。

 慎慮こそは、単に政治的道徳的な諸特性の階梯の最高に位置するのみならず、これらの特性すべてを調整し誘導する物差しに他ならない。形而上学は定義なしには存立できないが、慎慮は定義を下すのに慎重である。

 それゆえ平常われわれの法廷は法律上の論点の判断の解明に際して、架空の非現実的な事例を引き合いに出すことを極度に自戒しなければならない。」(バーク『政治経済論集「旧ウィッグは新ウィッグを裁く」』、法政大学出版局、593594頁)

 道徳の実践(現実への適用)の真理は、上記の引用文を踏まえて、次のバークの言葉を読めば理解できるはず。

 エドマンド・バーク曰く

 「個々人の置かれた場所が彼の義務を決定する。

 『神は汝を如何なる者と命じたるか?』という問いに対する回答はもう一つの別の問い『事物の如何なる人間的なる場面(状況・条件)に汝はある

 を解くことで求められるはずである。」(バーク『政治経済論集「旧ウィッグは新ウィッグを裁く」』、法政大学出版局、654655頁)

 さて、フィクションドラマの中の、狂気のT大・AY名誉教授 殿、現実世界の道徳を理解頂けたでしょうか?

 ◆◆◆◆◆

 【補 足】(平成27年2月19日19:30、コメント欄より、本文へUP)

 付言すれば、上記のバーク哲学は、中川八洋 筑波大学名誉教授の「3回 13名ゼミ」における、バーク保守主義の哲学講義の<<ほんの一部分>>をまとめた(引用した)にすぎない。

 なお、上記ブログ本文の補足として、「国民の祖国に対する義務」についての以下ののバークの論述も大変に深淵であり、読者の方々の人生観(生き方)の参考になり、有益であるので、少し長いが引用しておきたい。

 ※ バーク保守主義の哲学をもっと知りたい方は、バークの著作群、中川八洋先生の著作群、ハイエク全集など、真正保守(自由)主義の書籍を熟読して頂きたいと思う。

 なぜなら、それらを読めば、読者が自分自身の人生良く善く)送れるような、真の現実に即した指針”と“信念”を必ず、授けてくれるからである。

 エドマンド・バーク曰く、

 「われわれが結婚する場合、確かに選択は任意であっても個々の義務は選択の対象ではなく、状況の本性にもとづいて指図される。

 われわれがこの世に生れ落ちる道筋は暗くて究め難くこの自然造化の神秘的過程を生み出す本能もわれわれが作り出したものではない。

 だが、われわれには知られぬ、否、知られえない物理的原因に由来する道徳上の諸義務は、われわれにも完全に理解できるものゆえに不可避的に履行されるべきである。

 両親は彼らの道徳的関係に同意した事実がないかも知れないが、同意したと否とに関係なく彼らは現実に従来いかなる種類の協約も結ばずにいる子供たちへの長く続く負担の重い義務を負うている。

 子供たちは自己の血縁関係に同意した事実はないが、彼らの置かれる関係そのものが彼らの実際の同意をまたずに彼らをその義務へと拘束する

 ---といよりは、むしろ予測される事物の秩序に対応するものとしてすべての理性的人間による同意が推定される以上、最初からその同意を内包すると言う方が一層適切である。

 人間はこのような仕方で特定の両親の社会的境遇に伴う各種の恩典に浴し、各種の義務を負う形で共同社会の一員となる。

 もしも国家社会の構成単位であるこれら物理的諸関係(夫婦・家族)から紡ぎだされる社会的紐帯と羈絆が大抵の場合にはわれわれの意思とは独立に始まり、例外なしに必ずその形で継続する以上、われわれは同様に自分たちの側の特定の約定をまつまでもなく『あらゆる人間同士のあらゆる愛情』を包合する〔といみじくも形容される〕われらの祖国という名の関係に拘束される。

 そしてこの畏怖すべき強制的な義務をわれわれにとってそれと同程度に馴染み深くさせる強力な本能をも、われわれは併せ授けられる。

 われわれの祖国は単なる物理的な地縁を示す土地ではない。

 それは有体に言えば、われわれが(自分の意思と無関係に)生れ落ちた古来の秩序そのものである。

 ・・・各人が特定の共同社会へ生れ落ちたことで引き受ける根源的な人間関係や彼が両親の胎内から生まれたことで結ぶこの特定の血縁への恩義から免れる権利

 (=道徳的義務を無視したり、破壊したりしようとする、単に人間として生れたという理由のみに基づく観念的・抽象的な「人間の権利」や自然(原始)社会の「自然権」などの純粋な形而上学的権利など)

 を持たない、と確信している。

 個々人の置かれた場所(=生れ落ちた古来の秩序)が彼の義務を決定する。」(バーク『政治経済論集「旧ウィッグは新ウィッグを裁く」』、法政大学出版局、654655頁)

 さらにバーク曰く、

 「我々は、国家に対する愛情を己が家族の中より始めます。

 身近な親戚に冷たい者が熱烈な国民たることはありません。

 我々は次いで隣人に、そして、慣習によって定まった各地方の人間的繫がりへと進みます。

 そうしたものは、いわば旅籠であり、休み場なのです。

 慣習によって

 ---(革命フランスの国民議会のような)支配権力の唐突な一捻りによって、ではなく---

 形成された我が国のそうした諸地方は、それぞれ、かくも数多く、偉大な国土の小さな似姿を示してくれます。

 人間の魂はその中にこそ、自らが貢献しうる何事かを見出して来たのでした。

 しかし、全体から見れば下位に属するこうした偏愛によって、その全体に対する愛が質滅してしまうことはありません。

 むしろそれは、より高次の、より広範な関心を涵養するための一種の基礎訓練となります。

 こうした訓練によってのみ人々は、自分自身の利害に対するのと同じように、・・・広大な王国(=国家)の繁栄にも心を動かされるようになるのです。」(バーク『フランス革命の省察』、みすず書房、249頁)

 以上。

image002.png 

 写真は、中川八洋「第3回 13名ゼミ」に向かう新幹線の車窓より、〔=ブログ作成者〕(写真の)素人が撮影したものです。大変美しい富士山でしたので掲載しました。