保守主義の哲学シリーズ‐‐‐「真正の保守主義とは、いったい何なのか?」という疑問への明確な回答書(その3) [政治]
21世紀の日本国における重要課題
真正の『保守主義』の“政治哲学思想”の定義について(その3)
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(6) 完全デモクラシーへの批判
(イ) 完全デモクラシー(perfect democracy)は反道徳の恥知らずの政体である。
バーク曰く、
「完全なデモクラシーは、この世で最も恥知らず(shameless)の政体である」(『フランス革命の省察』、みすず書房、119頁)
フランス革命によるデモクラシー(=民衆制/民衆政治参加制度)に道徳的腐敗と自由の終焉を鋭く見抜いたバークは、平等原理に基づくデモクラシーの、悪と危険性とを訴え続けた。バークのデモクラシー批判は、大西洋の対岸において同時代の建国の父であるG・ワシントン/A・ハミルトン(=米国保守主義の父)/J・アダムスらとともに、その後の英米憲法に共通する基礎であった。
● デモクラシーの害毒は主として、まず、次の二つ。
① 政治を道徳的に腐敗・堕落さていくこと。
② 多数者の専制:(絶対君主の専制に比較できないほどの)超専制体制へと政治を転換していき、自由を圧搾する。
①によるデモクラシー批判は、アクトン卿/ブルクハルト/ル=ボン/オルテガらバーク保守主義者に継承され、20世紀のベルジャーエフの悲痛なソ連体制批判で再び喚起された。
戦後の日本国のデモクラシーが誕生させた、金権政治の歴史は、疑うことなくこの命題の正しさを示している。そして今日の鳩山首相と民主党小沢一郎幹事長の政治資金問題でその道徳的腐敗は頂点を極めていることからも明白である。
②によるデモクラシー批判は、A・トクヴィル/H・アーレント/F・ハイエクに繋がって行った。
ナチス・ドイツのヒトラーがデモクラシー下の民衆による普通選挙で誕生した事実と、その政権下で行われたホロコーストの歴史事実、共産主義国家の「人民民主主義」体制下での合計2億人にものぼる、自国民大量殺戮の歴史事実から、この命題の正しさも火を見るより明らかであろう。
①②を見抜いたバークは君主制・貴族制・民衆制(=デモクラシー)の混合政体を保守するよう訴え、「デモクラシー三分の一容認」論を唱えたのである。
英国では、パワー・バランスの変化はあるものの、現在も形式上、この混合政体を保守している。
ちなみに、フランス国王ルイ十六世は国民の誰をも無実の罪で処刑するようなことはしなかったし、重罪人ですら処刑することはほとんどなかった。
逆に、フランス革命によってこの地上に初めて現われたデモクラシーのフランス共和国(人口二千七百万人)は、ギロチンをフル稼働して、あっという間に自国民数十万人(約50万人)を無実の罪で処刑し、虐殺したのである。
そして、日本国も含め、王制や貴族制の下では、そのような国民虐殺は万が一にも生じていない。
米国は、英国の国体を尊崇して、英国王(=米国大統領)、英国貴族院(=米国上院)、英国庶民院(=米国下院)と見立てた、共和制をとっているため、同様に国民虐殺は万が一にも生じていない(※南北戦争は米国内戦であり、多数者の専制による国民虐殺とは異次元の事象である)。
● デモクラシーの害毒の三つ目。
③デモクラシーとは、「多数の意志」が立法や命令を独占することに正統性を与え、この立法や命令が善か悪かを問わないので、抑圧される少数者(デモクラシーの被害者)は、しばしば「多数者の意志」の悪や不道徳を拒絶したことにおいて罰せられる。
ノーベル経済学賞受賞者で、政治哲学者のF・ハイエクはデモクラシーの「多数の意志主義」について、次のように語っている。
ハイエク曰く、
「民主主義的な制度が法の支配(=立憲主義を含む)の伝統によって制限されなくなってしまったところでは、そうした(デモクラシーの)制度は、単に〈全体主義的民主主義〉につながる・・・」(『ハイエク全集』第十巻、春秋社、13~14頁)
このことは、現在の鳩山政権と民主党にぴったりと当てはまる。
例えば、永住外国人地方参政権附与問題は、「日本国憲法第十五条 公務員を選定し、及びこれを罷免することは、国民固有の権利である。」に基づいて、1995年2月28日の最高裁(第三小法廷)の判決主文は「憲法第九十三条第二項は日本国籍を有さない在日外国人には参政権は与えられないと解するべきである」と外国人地方参政権附与は違憲であると決定しているのに、平気で憲法違反して立法し、「多数者の専制」の論理で強引に可決しようとしている。
この件については、日本国民は、最高裁の対応を注視する必要がある。
なぜなら、最高裁は自らが違憲であると判決した内容と同内容の法案を国会が立法しようとするのを見て、違憲と知りながら見て見ぬふりをするのか、憲法の番人らしく、良識を示して違憲立法審査権を自主的に発動し、法案を廃案に持ち込むかを見極める絶好の機会だからである。
また、民主党の小沢一郎幹事長は、全国の地方からの要望を幹事長室に集約し、要望を持参した地方の首長や議員らに、選挙での民主党支持を約束させているようである。
そして、TV中継の記者会見で持論を述べるときには、いつも口癖のように私の意見は「民主主義による国民の意志である」、「民主主義による国民の意見である」、「民主主義による国民の要望である」と連発する。
つまり、「民主党幹事長の私の意見」は、すべて「民主党に総選挙で多数を与えた国民の意志・意見」であるという論理である。
また、最近は天皇陛下に対しても「私の意見」=「天皇陛下の意志」なる発言もあった。
完全な、気狂い政治家である。
これをデモクラシーが生んだ、多数党の専制政治(=小沢一郎の独裁政治)と言わずして、何というのか。
ハイエクに従えば、このような、「多数党の専制政治」と「法の支配/立憲主義の崩壊」が重なった時、最悪の「全体主義的民主主義」となる。
(ロ) 中間組織の保守と再生の必要性
● デモクラシーの害毒の四つ目。
④デモクラシーが、何でも平準化する「デモクラシーの水平主義的諸原理(=平等主義的諸原理)」で行動する以上、「中間組織」を破壊し、国民の「自由」を侵害することである。
中間組織とは、歴史による時代の経過に従って自然的に成長・発展してきた、以下のような共同体を言う。
(ⅰ) 欧州諸国の君主/貴族/庶民(=商人、職人、農奴・・・)や日本国の天皇(皇族)/公家/武家/農民/職人/商人/華族/平民などの「階級の共同体」
(ⅱ) 家族・親族という「血縁の共同体」・・・他の中間組織を形成する上で、重要な核となる組織である。
(ⅲ) 寺・神社・教会等を縁とする「信仰の共同体」
(ⅳ) 村(=部落)を縁とする「居住の共同体」
(ⅴ) 農業に関わる共同体、漁業に関わる共同体、林業、商業、工業、・・・などその他の「多様な共同体」
個々の国民は、このような多様な中間組織に幾重にも所属することにより、国家権力が個人に対する自由の侵害をするとき、中間組織のバリアーによって、自己の自由を守ることができるのである。
また、これらの中間組織には、国民の伝統や慣習と権威が宿っており、個々の国民は、この中間組織で育たない限り、自己を認識できる健全な人格は形成されない。
米国の社会学者・歴史家であるR・ニスベットによれば、「中間組織」の解体や弱体化は、必然的に人間の人格を破壊し、自分がどう生きていくのかの情報すら手にできなくなり、個々にバラバラとなった個人(=アトムとなった個人)は「根無し草人間」、「余白的人間(マージナルマン)」、「憑依的妄想人間」、「無規範(アノミー)人間」、「孤独に苛まれる人間」となる(『共同体の探求』梓出版社、18頁)。
以上(1)から(6)が真正の『保守主義』の“政治哲学”の根本原理である。
そして、ある保守主義者と呼ばれる人間の言説・理論がこの根本原理から逸脱すればするほど、その言説・理論は「似非保守主義」と断言してよい。
なぜなら、上記の「保守主義の根本原理」は、君主制・貴族制・民衆制の封建遺制的な混合政体を現在でも保守している英国の、保守主義の父、エドマンド・バーク保守主義の理論体系だからである。
今日に至るまで、「英国の混合政体」と「英国民の権利および自由」が保守されてきた歴史事実において、「バーク保守主義=真正保守主義」と認めることに異論を差しはさむ保守主義者などは「既に保守主義者でない」からである。
なお以上の理論体系は、日本随一のバーク保守主義者で碩学の政治哲学者である中川 八洋 筑波大学名誉教授のバーク研究に関する著作群を、私が概ね完全読破・完全理解し解釈を加えた上で、再度エドマンド・バークの『フランス革命の省察』/W・バジョットの『英国憲政論』やA・ハミルトンらの『ザ・フェデラリスト』を精読して英米の保守哲学・憲法思想を解読し、
また、日本国の『古事記』・『日本書紀』・聖徳太子の『十七条憲法』・佐藤一斎の『言志四録』・新渡戸稲造の『武士道』等々を精読し、『明治憲法』・『日本国憲法』を解読し、
さらに左翼哲学であるデカルトの『方法序説』・ルソーの『社会契約論』・ベンサムの『憲法典に先行する第一諸原理』および『憲法典』・マルクス/エンゲルスの『共産党宣言・共産主義の諸原理』を読解し、その論理矛盾をブログ上で論駁した上で、
バーク保守哲学の理論を日本国の国体に添わせる形で(1)~(6)項目に要約し、凝縮したものである。真正保守哲学の提要として、理論上の過誤はまず皆無であろうと確信するものである。
以上で「真正の保守主義とはいったい何なのか」を理解していただけたことでしょう。
と信じております。







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