新刊情報---中川八洋『脱原発のウソと犯罪』、日新報道(2/8発売予定) [政治]
読者の皆様、中川八洋 筑波大学名誉教授の新刊『脱原発のウソと犯罪』、日新報道
が、2012年2月8日発売予定との情報を私の尊敬する盟友から頂きました。
物事の真実・本質を見極めたい方はぜひお読みください。
保守主義の哲学---日本国の天壌無窮の繁栄あらんことを願って [政治]
読者の皆さま、
大変遅くなりましたが、謹んで新春のお慶びを申し上げます。
本年もご指導ご鞭撻の程、よろしくお願い申し上げます。
さて、本ブログの平成24年第1回目は「日本国の天壌無窮の繁栄あらんことを願って〔PDF〕」である。
この私〔=ブログ作成者〕の拙論は、表題の文言の意味とエドマンド・バーク、ハイエクらの真正自由(保守)主義哲学に興味と関心を抱かれる人々には僅かに「読む価値がある」のかもしれない。
だから逆に、「女性宮家/女性天皇/女系天皇」の制度の新設、つまり「天皇制廃止/皇統断絶」を謀る反日・極左(左翼)の逆賊らにとっては「読む価値は何もない」ことになるので添付のPDFファイルを開く必要すらないことを最初に申し述べておく。
兎に角、拙論に興味を抱く少しでも多くの日本国民に読んで頂ければ幸いである。
PDFファイルを開く(クリック)→日本国の天壌無窮の繁栄あらんことを願って〔PDF〕
【平成24年1月27日掲載(神戸発)】
エドマンド・バークを信奉する保守主義者
保守主義の哲学---ハイエクに学ぶ自由主義概論Ⅳ(最終章) [政治]
→私〔=ブログ作成者〕の解説:(Ⅲからの続き)
12)自然発生的な自生的自由秩序について。
ハイエク曰く、
「社会制度を、それが意図的に設計されたものではないという理由から[自然的]であると述べるものがいた一方で、同じ制度を、それが人間行為の結果であるという理由から[人為的]であると述べる者もいた。
それでも古代の思想家のなかに、社会制度を生みだした進化の過程に、かなり近づいた人がいた・・・古代時代のローマの法学者たちは少なくとも、ローマの法秩序が以下の理由によって他国のものよりも優れていることを十分に意識していた。
その理由とは、カトーが述べたと言われるように、ローマの法秩序は、
[一人ではなく、多数の人びとの天稟に基礎を置いており、また、一世代ではなく、いくつもの世紀や多数の世代という長い期間に基礎をおいていたからである。
というのも、カトーによれば、彼の目を逃れるものごとがまったくないほどに卓越した天賦の才に恵まれた人間など決して存在したことなどないし、ある時代に生きているあらゆる人間の力を結集したとしても、将来への対策をすべて行うというようなことは、現実の経験による助けや、時間による検証なしには、おそらく不可能だからである。]」(『ハイエク全集Ⅱ-7「思想史論集」』、春秋社、55~56頁)
13) 果たして「自己愛」は本当に、悪徳あるいは憎むべき不正義だろうか?
ミルトン・フリードマン曰く、
「経済分野における市場という狭い問題にだけとらわれてしまったため、あの[自己愛の原則]も、直接的な物的報酬だけにしか関心を持たない近視眼的利己心を意味するに違いないと、極めて狭くしかこれを解釈しないようになってきてしまっていた。
こうして経済学は、金銭的な刺激に対してだけしか反応しない、計算機に少し毛が生えたような存在でしかないあの[経済人]という、まったく非現実的な人間像を基本的な概念として、壮大な結論を引き出しているに違いないと、多くの人びとに誤解され、非難されてきた。
このような理解の仕方は、たいへんな誤りだ。
[自己愛(=各人がそれぞれなりに自分自身の利益を追求すること)]とは、近視眼的な利己心のことでは決してない。
[自己愛]とは、人びとが関心をもつ事柄なら何であれ、また人びとが尊重するものならなんであれ、さらに人びとが達成したいと欲する目的ならなんであれ、それらをすべて含んでいる(→当然「お金儲け」だけを除外することはできまい)。
自分の学問分野の最前線を前進させたいと努力している科学者。
不信心者を本当の信仰へと改宗させたいと努力している伝道者。
生活に苦しんでいる人びとに、安楽をもたらしたいと努力している博愛主義者。
これらの人びとは、例外なしに、自分たちが考える形での自分にとっての最大の関心、自分自身の価値観に従って自分なりに下した判断を満足させたり追求したりしているに過ぎない。
すなわち、これらのすべては、それぞれなりの[自己愛]の発露にしかすぎない。」(M&Rフリードマン『選択の自由』、日経済新聞社、44頁)
→私〔=ブログ作成者〕の意見:
自由主義者に限らず、すべての人間は「自己愛」なしに生きることはできない。
「お金儲け(拝金主義)」自体も「自己愛」の一形態にすぎない。
重要なことは、自由主義社会では、如何なる形態の「自己愛」の追求であっても、「法の遵守」と「結果に対する責任義務」を果たさねばならないということである。
ゆえに「金儲け(詐欺・契約違反など)」であれ「学的研究(事実の歪曲・捏造による国民騙し・煽動)」であれ「博愛主義(国民への強制による分配的正義)の追求」であれ、これらはすべて真正の自由主義においては「不正義」にすぎない、ということである。
14) 学者と学問
ハイエク曰く、
「社会研究においては、ある専門分野への極端な専門化はとりわけ破壊的な結果をもたらす。
そのような専門化によってわれわれは、単に魅力的な話し相手とか良き市民になれなくなるというだけでなく、専門の領域において、または、少なくとも遂行しなければならない重要な課題のいくつかにかんして、適正を欠くようになるのだ。
物理学者でしかない物理学者は、それでも第一級の物理学者、そしてもっとも価値ある社会の一員である。
しかし経済学者でしかない経済学者は、偉大な経済学者ではありえない。
これに加えて私はむしろ、経済学者でしかない経済学者は、積極的な危険となるか、そうでなくとも迷惑になる、と言いたい気がする」(『ハイエク全集Ⅱ-4「哲学論集」』、春秋社、312頁)
15)16) まとめ。
→私〔=ブログ作成者〕のまとめ:
自然発生的な自生的秩序の維持に不可欠な、伝統や慣習に基づく法を遵守して行為する限りにおいて、人びとは自らの知識、技術をもちいて自らの目的(自己愛)を追求しているようにしか感じられない場合でも、目には見えないが、確かに存在する、古き祖先から世襲されてきた“法”の秩序維持機能によって、我々は同時に他者のためにも行動することが可能になるのである。
逆に他者が他者自身の自己愛追求のためだけに行うように見える行為も、他者が法を遵守する限り、法は我々自身の利益も増すように働くである。
なぜなら、伝統や慣習などの法とは過去のすべての日本国民の歴史経験における叡智の集積だからである。
つまり、このような自由の法による自生的自由秩序が、経済における「市場原理」や「見えざる神の手」の本義であるから「市場原理」、「資本主義」は決してルールなき弱肉強食の「市場原理主義」などではないし、法の支配の確立した真正の自由主義とは、日本国民が求めることのできる最も確かな安全域であり、また真に弱き人々を保護する最強の砦なのである。
(現在位置:ハイエクに学ぶ自由主義概論Ⅳ)
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【平成23年12月30日神戸発】
エドマンド・バークを信奉する保守主義者
保守主義の哲学---ハイエクに学ぶ自由主義概論Ⅲ [政治]
→私〔=ブログ作成者〕の解説:(Ⅱからの)続き
9)アダム・スミスらスコットランド道徳哲学派について。
ハイエク曰く、
「『エジンバラ・レビュー』の編者であったフランシス・ジェフリーは1806年に、ケイムズ、アダム・スミス、そしてジョン・ミラー〔さらにアダム・ファーガソンも付け加えるべきであった〕というスコットランド道徳哲学の巨頭たちについて、偉大な研究目的は次のようなことであったと書き記している。
(フランシス・ジェフリー曰く、)
[社会の歴史を、もっとも単純で普遍的な要素にまで遡らせ、実定的に帰せられているほとんどすべての事柄を一定の自明な諸原理の自生的かつ不可避的な発展としてとらえなおすこと、また、もっとも精妙で一見人為的に思える政治の仕組みが、政治的な叡智や考案をほとんどともなわずに作り出されたということを示すこと]
こうした一般的なアプローチを市場に適用するにあたって、スミスは同時代人たちの誰よりも先にまでその基本的な概念を展開することができた。
分業に関する有名な議論が果たしたもっとも重要な貢献とは、親しい仲間によく知られた具体的なニーズや能力によってではなく、貨物の需要・供給を市場で調節する抽象的な価格シグナルによってその活動を支配される人間こそが、[どんな人間の叡智や知識をもってしても十分に]見渡すことのできないような[大きな社会]の広大な領域のために奉仕できる、という認識であった」(『ハイエク全集Ⅱ-7「思想史論集」』、春秋社、103~104頁)
ハイエク曰く、
「私が好んで[設計主義]と呼ぶ一般的態度が存在することを彼(=アダム・スミス)はよく理解していた。
そうした人のことを彼は[体系の人〔men of system〕]と呼んだ。
以下は、彼がその最初の偉大なる著作(=『道徳感情論』)のなかで、そうした人について語った言葉である
(アダム・スミス曰く、)
[体系の人は・・・、チェス盤上でさまざまな駒を指し手が配置するのと同じくらい容易に、大きな社会のさまざまな成員を自分が配置できると想像しているようである。
チェス盤上の駒は、指し手が押しつける原理以外の運動原理をもたないが、人間社会という大きなチェス盤の中では、どの駒もみな、立法府が押しつけたいと考える原理とはまったく異なる、それ自身の運動原理をもっていることを彼はまったく考慮していない。
もし、それら二つの原理が(法の下の政府と法の下の自由という原理によって)一致して同一の方向に作用するならば、人間社会というゲームは容易に調和しながら進み、幸福で成功したものとなるであろう。
もしそれらが対立したり食い違いを見せたりするならば、そのゲームはみじめなものになり、社会はいつも最高度の無秩序のなかにおかれるに違いない]。」(『ハイエク全集Ⅱ-7「思想史論集」』、春秋社、106頁)
10)、11)「人間の行為の結果ではあるが、設計の結果ではない自生的秩序」について。
ハイエク曰く、
「彼(=バーナード・マンデヴィル)の中心的な主張は、簡潔に次のようなものとなった。
すなわち、社会という複雑な秩序においては、人間の行為の結果は、意図していたものとはきわめて異なるということ。
個人は自らの目的を追求することで、それが利己的であろうと利他的であろうと、予想したりおそらく知ることさえない、他者にとって有益な結果を生みだすということ。
そして最後に、社会の全秩序と、さらに文化と呼ぶものすべてまでもが、そうした目的を全く考慮することがない個人の努力の結果であるが、しかしそうした努力は、意図的に考案されたものではないが、有益だとわかったものが生き残ることで成長してきた制度や慣習やルールによって、そうした目的を生みだすよう導かれるのだということ。
こうした幅広い命題を彫琢するなかで初めて、マンデヴィルは、秩序だった社会構造の自生的成長のあらゆる古典的範例、すなわち法や道徳、言語、市場や貨幣、さらに技術的知識の成長について論じたのであった」(『ハイエク全集Ⅱ-7「思想史論集」』、春秋社、53~54頁)
――『ハイエク全集Ⅱ-5「政治学論集」』、春秋社、138~140頁――
法と行為の自生的秩序
自由主義理論が正しい行為のルールを重視したのは、このルールが、それぞれの知識をもちいてそれぞれの目的を追求しているさまざまな集団や個人の行動を律する自然発生的な自生的な秩序の維持に不可欠であるという見識にもとづいている。
18世紀自由主義の偉大なる創始者、デイヴィド・ヒュームやアダム・スミスは少なくとも、利害が自然に調和するとは考えておらず、逆に、さまざまな個人の多様な利害は、行為についての適正なルールを遵守させることで調和させることができる12と考えていた。
同時代のジョサイア・タッカーがいったように、「(行為に関する正しい行動のルールを遵守することで)人間を突きうごかす普遍の力(=人間本性)、つまり自己愛13を、自らの望みを満たすための努力によって公共の利益も促進できるような…方向に向かわせることができるかもしれない」。
18世紀の著述家たちは、法哲学者であると同時に経済秩序を研究する学徒(=経済学者)でもあった14。彼らの生み出した法概念と市場メカニズム理論は密接に結びついていたのである。
私有財産制度と契約の履行を中心とする法の規定を受け入れなければ、個々の人間の行動計画を調整することなどできないと、彼らは理解していた。
(法と法の遵守が)そのような調整を行うからこそ、すべての人間にそれぞれの行動計画を遂行する可能性が生まれるのである。
これ以後の経済理論がより明確にあらわしたように、(私有財産制度と契約の履行などに関する法が)個々の経済計画を相互に調整することで、人びとは自らの知識、技術をもちいて自らの目的を追求しながらも、他者のためにも行動することができる15のである。
行為ルールの役割は、個人の行動を共通の目的に向けて組織化することではなく、各個人が、他者の(=他者による他者自身のための)目的追求のための行動からも最大限恩恵を受けることができる行動秩序を保障することである。
そのような自生的秩序の形成を導くルールは、これまでの長いあいだの実験(=文明の漸進的な進化の経験=伝統・慣習)の成果であると考えられる。
さらなる改善も可能だが、ゆっくりと段階的に、新たな実験(=進化の経験)が望ましい結果をもたらすかどうかを確認しながら進めていかなければならない。
自然発生的秩序の最大の利点は、個人が、自分のためであれ人のためであれ、自由に自らの目的のために動くことができるということだ。
また、(自分の知識だけでなく)その時と場所に存在する知識を利用することも可能になる。
この知識は、個々人がもつもので、支配権を有する単一の権威が所有するものではない。
この秩序では、統制経済制度の下よりも多くの知識を活用できる。
それが、社会全体として最大の成果を生みだすことに繋がるのである。
そのような秩序の形成を、適正な法のルールの規制の下に機能する市場の自生的な力にまかせることで、より包括的な秩序の形成を保障し、特定の場合(=個別の事象)への適応力も高めることができる16。
また、この秩序の具体的な中身については、意図的に管理できるものではなく、偶然に支配されることが多くなる。
法のルールの枠組みと、市場秩序形成のためのさまざまな制度は、その秩序の全般的、抽象的特性を規定することはできるが、特定の個人や集団に対する影響の中身(=抽象的ルールを遵守して為された特定の行為の結果)までは決めることはできない。
すべての人びとに多くの機会をもたらし、各個人の成否(=結果)についてはそれぞれの努力にまかせるということにこの方法の意義がある。
そして、個人や集団の得る結果は、自分たちにも他人にも決めることができない、予測不可能な状況(=偶然=運)に左右されるのである。
アダム・スミスの時代以来、市場経済において個人の取り分が決まるプロセスはゲームにたとえられてきた。
結果は個人の技術と努力、そして、運によって決まるのである。
個人がこのゲームに参加するのは、参加することで自分の取り分が含まれる賭け金がどの方法によるよりも増えるからである。
だが同時に、個人の取り分はあらゆる種類の偶然に影響を受けることにもなり、個人の努力の中身とか他者による評価とかには比例しないこともある。
この状況が提示する、公正ということについての自由主義の概念について話を進める前に、自由主義の法概念が体現することとなった制度について考える必要がある・・・。
※〔 〕内:ハイエク。
( )内、アンダーライン、上付数字:私〔=ブログ作成者〕。
――『ハイエク全集Ⅱ-5「政治学論集」』、春秋社、138~140頁――
(現在位置:ハイエクに学ぶ自由主義概論Ⅲ)
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【平成23年12月30日神戸発】
エドマンド・バークを信奉する保守主義者
保守主義の哲学---ハイエクに学ぶ自由主義概論Ⅱ [政治]
――『ハイエク全集Ⅱ-5「政治学論集」』、春秋社、136~138頁――
自由主義の法概念
法の下の自由、言いかえれば、恣意的な強制の排除、という自由主義の考え方は、「法」と「恣意」という言葉の意味そのものから生まれたものでもある。
この二つの言葉の違いから、自由主義の伝統のなかで対立が生じているといってもいい。
一方にあるのがジョン・ロック6のように、自由は法の下においてしか確立されないという立場〔「他人の機嫌に左右されながら、人は自由になれるだろうか」〕、もう一方は、大陸型自由主義者やジェレミー・ベンサム7の立場で、ベンサムの言葉を借りれば、「すべての法が自由を侵害するものである以上、法はすべて悪である」というものである。
たしかに、法は自由を破壊するためにももちいられる。
だが、立法行為が生みだすもの(=法律)がすべて、ジョン・ロックやデイヴィド・ヒューム8、アダム・スミス9やイマヌエル・カント、さらには後期ホイッグ派が、自由の保障として考えていた意味での法とは限らない。
彼らが自由を保障するものとして論じた法は、正しい行動のルールのみで私法や刑法を為すもの10である。
立法機関が決定した政令(=法律)11すべてを指してはいない。
政府が施行するルールがイギリス型の自由主義の伝統のなかで自由の条件として論じられる意味での法となるためには、いくつかの特性をもっていなくてはならない。
この特性はイギリス的な慣習法(=コモン・ロー)には必ず備わっているが、立法行為の生み出すもの(=法律)は必ずしも備えてはいない。
それは、将来予測不可能な事例についても適用可能な、個人の行為の一般的ルールという特性である。
このルールは、保護されるべき個人の領域を規定するもので、その内容から具体的な指令をだすのではなく、禁止条項を定めるという特徴をもつ。
そのため私有財産制度と不可分でもある。正しい行為のこのようなルールが規定する範囲内で、個人は自らの目的に向かって、自分にとって望ましい方法で、自らの知識や技術を自由に活用することができるとされるのだ。
政府の強制力はこのように、正しい行為のルールの施行に限定されるというのが前提だ。
一部の極端な自由主義の一派の考え方を除けば、この前提は、市民にたいしてある種のサービスを提供することを禁ずるものではない。
政府にサービスの提供が求められた場合、政府はその目的のために政府に委ねられた資源を使用することができる。
だが、市民を強制することはできない。
言い換えれば、政府はその目的達成のための手段として、個人や個人の財産を利用することはできない。
そんなことをしたら、正当な権威をもつ立法府の行為であっても、独裁者の行為と同じくらい恣意的となる。
なぜなら、どのような場合にも適用可能なルールに則ることなく、特定の個人や集団を対象にした指令や禁令は恣意的とみなされるからである。
古くからの自由主義の伝統のなかで使われてきた意味での「強制行為」が恣意的とみなされるのは、その行為が政府の特定の目的のためのときである。
その判断は、その行為が特定の意志による行為なのか、一般的ルールによるものなのかという点にかかっている。
一般的ルールとは行動全般のなかから自然に生まれる秩序を維持するのに必要なルールで、正しい行為のルールがその秩序を保障するのである。
※〔 〕内:ハイエク。
( )内、アンダーライン、上付数字:私〔=ブログ作成者〕。
――『ハイエク全集Ⅱ-5「政治学論集」』、春秋社、136~138頁――
→私〔=ブログ作成者〕の解説:
6) ジョン・ロックの思想について。
ハイエク曰く、
「ジョン・ロックの『統治二論』(1689年)だが、これは一部、合理主義的な政治制度理解の元となっていて、18世紀イギリスの思想家たちの基盤にはなっていない〔詳しくは、アルジャーノン・シドニーとチャールズ・バーネットのホイッグ党初期の理念に関する著作を検討しなくてはならない〕」(『ハイエク全集Ⅱ-5「政治学論集」』、春秋社、125頁)
7)イギリス哲学的急進主義( ジェレミー・ベンサム)
ハイエク曰く、
「エルヴェシウスやベッカリーアといったデカルト的伝統を受け継ぐ著者、あるいはベンサム、オースティンからG・E・ムーアにいたるイギリスの後継者たちは、代々続く世代によって進化発展してきた抽象的ルールに埋め込まれている功利性を探求する[一般主義的功利主義(generic utilitarianism)]を、あらゆる行為はすべて予見可能な結果にたいする完全な自覚の下で判定されるべきだということを究極的な帰結としては要求することになる個別主義的功利主義(particularist utilitarianism)に変更した。
これはつまり、遂にはすべての抽象的ルール(=伝統や慣習に基礎とするイギリス的なコモン・ロー、つまり自然発生的な自生的自由秩序)なしで済ますことに向かい、すべての関連する事実を完璧に知ったうえですべての部分部分(=詳細な個別の事象)を具体的に整える(=完全な人間理性で統制し、命令によって計画する)ことによって人間は望ましい社会秩序を手にする(=設計する)ことができるのだという主張へと導く考えである。
したがって、ヒュームの一般主義的功利主義が理性の限界にたいする認識に依拠しており、抽象的ルールへの厳密な服従から理性の最大の利用が得られることを期待するのにたいして、設計主義的な個別主義的功利主義は、理性に複雑な社会の細部をすべて直接操る能力があるのだという信念に依拠しているのである」(『ハイエク全集Ⅱ-4「哲学論集」』、春秋社、13頁)
ハイエク曰く、
「最大多数の最大幸福が決定されることになる快楽と苦痛の計算にかんするベンサムの概念は、ある行為の特定の個々の結果すべてが行為者に周知でありうることを前提にしている。
その論理的結論を追っていくと、それはルールをまったく不要なものとし、それぞれの行為をその行為の周知の効果がもつ効用にしたがって判断する、特殊主義的(個別主義的)あるいは[行為]功利主義にいたる。
・・・しかし、その議論の論理からすれば、少なくともかれの後継者の何人かは個々の行為はその特定の帰結についての完全な知識に照らして決定されるのでなければならないことを明らかに理解していた。
かくて、われわれはヘンリー・シジウィックが、[われわれは各(個別)事例]について、さまざまな代替的行動の予想される結果として予見できるすべての快楽と苦痛を比較し、全体としての幸福を最大にすると思われる代案を採らなければならない]と主張したことに思い至る」(『ハイエク全集Ⅰ-9「法と立法と自由Ⅱ」』、春秋社、30~31頁)
→私〔=ブログ作成者〕の意見:
ベンサムの特殊主義的(個別主義的)功利主義(=極左イデオロギー)=社会主義アプローチによる「最大多数の最大幸福」の追求は、人間の能力の限界に関する前提条件が誤謬であるから、必然的に「最大多数の最大不幸」に帰結する。
このことは、数千万人もの自国民を大量虐殺した、レーニン/スターリンらの共産ロシア(ソ連)の74年間の悲惨な歴史が実証済みである。
8)デイヴィド・ヒュームについて。
ハイエク曰く、
「人間精神の脆弱性〔あるいはヒューム流にいうなら[人間知性の領域の狭さ]、あるいは私の好みで表現するならば、「人間に不可避的な無知」〕の結果定められたルールなしでは次のような結果を招くことになる。
すなわち人間は、
(ヒューム曰く、)
[ほとんどの場合、個々の判断によって行動するだろうし、問題の一般的性質だけではなく、関係する人びとの性格や状況をも考慮に入れるであろう。
しかし、容易に観察できるように、それは人間社会にかぎりない混乱を生みだすだろうし、もしなんらかの一般的かつ不変のルールによって規制されないならば、人間の貪欲さと偏愛はたちまち世界に無秩序をもたらすことであろう]」(『ハイエク全集Ⅱ-7「思想史論集」』、春秋社、88頁)
ハイエク曰く、
「ヒュームが『道徳原理の研究』の付録で述べている・・・。
(ヒューム曰く、)
[正義と誠実という社会的徳から生じる利益は、あらゆる個人の一つ一つの行為の結果ではなく、社会全体、あるいはその大多数によって同意された全体としての構造、あるいは(一般的、包括的ルールの)体系から生じるのである。
・・・この場合、多くの事例においては、個々の行為の結果と行為体系全体の結果は全く正反対である。
前者は極めて有害であるかもしれないが、後者は最高の利益をもたらす。
・・・その利益は一般的規則の遵守からのみ生じるのであり、それによって、特定の人物や状況から生じるあらゆる害悪や不都合に対して補償が行われるのであれば、それで十分なのである]。
ヒュームが明確に認識していたのは、一般的かつ普遍の法規範ではなく個人の評価(=恣意)が正義と統治とを支配するならば、体系全体の精神に反することになるだろうということであった」(『ハイエク全集Ⅱ-7「思想史論集」』、春秋社、89~90頁)
(現在位置:ハイエクに学ぶ自由主義概論Ⅱ)
→保守主義の哲学---ハイエクに学ぶ自由主義概論Ⅰ
→保守主義の哲学---ハイエクに学ぶ自由主義概論Ⅲへ
→保守主義の哲学---ハイエクに学ぶ自由主義概論Ⅳへ
【平成23年12月30日神戸発】
エドマンド・バークを信奉する保守主義者






